2013年6月18日 (火)

同性愛行為に耽っている

J官のゲイは最強に魅力的だよあいあんほーす
ホテルの上層部に影響力の大きいニッサン・ベルナールのおかげで、ブロックの妹の傍若無人な行為ですら見逃される。 放恣な素行において、ニッサンーペルナールはブルジョワ階級のシャルリュスに相当するといえる。 しかし、シャルリュスがしだいに下落を重ねるのに反して、ニッサン・ベルナールがこれからさき社会的に失墜したとは書かれていない。 これらユダヤ人たちは、いわば罰せられずに同性愛行為に耽っているのだ。 ブロックの妹たちの行為について、ミルトンーミラーは「公開の告白」と形容し、「告白はいわば無理強いされた許しの表明をもたらすのだ」といった。 またクリステヴアは、ユダヤ人、同性愛者という「二つのマージナルな存在をぶつかりあわせ、〈良き社会〉から浴びせられる批判と中傷を結合することによって、プルーストは故なき誹膀を追い返しているのだ」と考える。 あまりにグロテスクな行動の前では、人はなすすべを知らない。 グロテスクであることがかえって同性愛容認の契機となりえ、これに徹することもまた同性愛者の一つの生き方かもしれないのだ。 ラシーヌ劇について『ソドムとゴモラ』を読み進めていると、同性愛のコノテーションを多分に含んで、何回か、ラシーヌの『アタリー』あるいは『エステル』からの引用に出会う。

2013年6月14日 (金)

コートが脱げない

体専のゲイを探せ!あいあんほーす!
膝が少し震えていた。 こういう展開を予想していなかったのか、佐伯さんはまだ呆然とぼくをみていた。 その表情がたまらなかった。 からだは痛いくらい反応していて、吐く息は熱くて、友だちをいっぺんに二人失ったのだろう実感さえひびいてこない。 手をとられた。 ただごとでなく冷たい手だった。 渋谷の喫茶店なら四年のあいだにけっこうあちこち行ったけれど、この店は存在さえ知らなかった。 中は薄暗くて、入ってすぐ段差があったので転びそうになった。 客も全然いず、古色蒼然とした感じが鎌倉のレストランとそっくりだった。 コートもマフラーもとらないまま座ったぼくを、佐伯さんはじっと見た。 「なんかたのもうか。 ここ意外とうまいもの出すんだけど」ぼくは首を振った。 「あっ、もしかして期待してた?いきなりはあれかなと思ってワンクッション置いたつもりだったんだけど、余計だった?」コートが脱げないのは生理現象がおさまらないからだった。 恥ずかしさと悔しさでぐうの音も出ないままうつむいていると、「悪い」と小さな声が聞こえた。 「なんでこういう云いかたしかできないのかな、俺は」顔色のよくない従業員が音もなく登場した。

2013年6月11日 (火)

臨戦体制

新宿二丁目駅でゲイと出会ったよ!あいあんほーす君
多芸多才な自分をひけらかし、「プロテウス」的に自己を演出する傾向は、小説の最後までシャルリュスについてまわる。 彼がどれほど幻想にひたっているかは、次章でみる機会がある。 「一個の小さな哲学」を作り上げて、すべてを「そうした特殊な立場から説明」しようとする彼は「例外的なほど自分に満足している」のである(Ⅳ、三六七)。 だが、自己満足にひたるからといって、シャルリュスの内部に葛藤がないわけではない。 むしろロジエーケンプが論じるように、自分を維持し自分についての一定のイメージを保ちつづけるために、彼は絶え間ない臨戦体制に身を置いているといってよいくらいなのだ。 仮面をかぶりつづけるのは疲れる。 ナルシシストであることと、不安な存在であることとは矛盾しない。 本性を隠し、全能たる自分を演出するためにあらゆる戦術を用いる彼は、やり方の巧緻さゆえにかえって自分を露呈してしまうのである。 俗社会に対抗して、一つの高貴な生活基準を守ろうとするのであるから、シャルリュスもまた「ダンディ」に属する。 ブランメル、ボードレール、ロペールードーモンテスキューとつづくダンディズムの系譜が、多数に雷同しないためにも、社会的有用性に抵抗するためにも、女嫌いを標榜したことは、シモーヌーフランソワが詳しく語るとおりである。

2013年6月10日 (月)

カサブタ剥がされちゃってる感じ

トランジェスターな友人が悩みを打ち明けて
もっともその傷、治るどころかカサブタ剥がされちゃってる感じだけど。 ねえ。 俺も四捨五入したら三十だよ。 信じられない。 もうちょっと成長してもよさそうなもんなのに。 でも、これか俺のスピードなんだろう。 わからせてくれたのは、佐伯さんだよ。 好きにならなければわからなかったから。 もっと進歩がなかったんだろうから。 だから、ごめん。 思いだすとき、怒ってぱかりでごめん。 届きやしないけど、云っておきたい。 佐伯さん。 あなたがいなかったらきっと、今の俺もいないんだ。 その日のランチタイムは、本城か休みをとることになっていた。 世話になった知人に不幸があったのだという。 祐司が早めに店に着くと本城はすでに来ていて、仕込みを始めていた。 次に現れたのは木下南だった。 おはようございますと云うなり野菜の準備にとりかかる。 小柄な南が大量の茄子やトマトのはいった箱を抱えてくるのを見たらつい手を貸したくなるが、そこは心を鬼にしなければならない。 「指導係は何してんだ」作業しつつ本城が話しかけた。 さあ、とだけ南は応えた。

2013年6月 8日 (土)

年末に新婚旅行

イカニモのゲイとハッテン場で会ったよ
年末に新婚旅行に出る都合上、佐伯さんは仕事を前倒しで片づけなければならず、うちに来る頻度が前より減っていた。 姉は姉で友だちと会ったり、ブライダルエステに行ったり、新居となるうちの離れに自分の荷物を運び入れ始めたりで忙しそうだった。 引越し作業はぼくも当然手伝わされた。 ハンガーにかかったままの服や、CDや楽譜の入ったダンボールを抱えて行ったり来たりしながら、姉は央婦がここで暮らすことになった経緯について話してくれた。 嫁の実家の隣に住むなんていうのは、普通はいやなものらしい。 父がその話をもちだしたとき、破談の引き金にもなりかねないと姉は生きた心地がしなかった。 調子にのって婿養子とまで云いだすのではと身がまえていたが、佐伯さんはいやがるどころか、姓が変わるのもI向にかまわないというこだわりのなさだったという。 「冗談じゃないわよ、あたしは佐伯麻子になりたいんだから。

2013年6月 5日 (水)

同性愛芸術

ゆるぽなゲイって中々いない
あえて社会において無用であることに甘んじ、ただ美と観念をめざすか、それともいわば植物的な受動性に近づくのが、「同性愛芸術」の一つの特徴であると思える。 もっとも、これら非・社会的な芸術は、観念的であることによってかえってきわどく不安定な攻撃性をうちに秘めているのだけれど。 ナルシシスト、シャルリュスナルシシストといえば、シャルリュスは申し分なくナルシシストである。 いつも傲然と他を見下し、しばしば陶然として家系自慢にふけり、家門の威光と社交界での地位を笠にきて、小児的な全能感にひたる。 サン‥シモンにならって、颯爽たる自分を一幅の画面だと想像し(m、三五七)、モレルが原因で決闘に臨む場面を想像するや、電報を打ってでもエルスチールを呼んで来させようとする。 「一世紀にI度もないであろう」こんな情景を絵にするとは、画家にとってまたとない名誉ではないか(m、四五七)。

2013年6月 3日 (月)

夜の前に

ゲイ、それともニューハーフ?あいあんほーす?
「召使のスノビズム」プルーストについていえば、社会における同性愛のあり方について彼がまとまって抽象的な考察を展開したという事実はない。 だが彼にとってもまた、社会そのものが性衝動に似て、奥深く、不可解な法則に支配された、すぐれて生理的な何かであった。 『ソドムとゴモラー』で、さながら宮殿の壁に描きだされた「メネ、テケル、ペレス」の文字のように(m、一六)ソドムの世界が表面に出現して以来、社会は魔法の杖のI振りのように姿を変える。 世の中には同性間の愛情というものがあり、思いがけない人間同士が結合をとげ、固定されたものが動きだし、隠れた深淵が口を開ける。 これを知ると知らないとでは大違いだ。 外交団の「小さなソドムの国」の大使は、輩下一同の性癖について無知で終わる(m、七四)。 彼は色彩感覚が乏しい一種の色盲なのだ。 「夜の前に」の女主人公と違って、彼は「ふつう赤いとみなされているものを紫と見る」(Js、一六九)ことができないのだ。 「性的嗜好にいえることは社交界にも成り立つ」とプルーストはいう。 「いったん美的な理由21に選択を委せたらヽどんな偏向に到り着くかもわからないのだ」^mヽ七四〇゛・゛政治的危機が。

2013年6月 2日 (日)

古代的な同性愛

ゴーゴーボーイなゲイのお仕事を探してます
間達な古代的な同性愛が衰え、「他人に隠し、自分自身にも偽装する」もっぱら神経症的なそれが生き残ったことを述べたあとで、「もろもろの障害にもかかわらず生き残った、見苦しい、罪の熔印を押されたこの同性愛」こそが「同じ人物のなかでいくつもの精神的特質の洗練に呼応することができる」(m、七一〇)と、プルーストは言い切るのだ。 生理的な欠陥と精神的価値との併存がよほど不思議だったのか、彼はそのあとすぐれた詩人でもある奇怪な狂人の讐え話を出す。 自分がイェスーキリストだと信じている他の狂人を明晰な言葉でやっつけたあとで、彼はいうのだ。 「そんなはずはありません。 だって、イェスーキリストは私なのですから」。 狂気と才能との結びつきは、プルーストの芸術思想のシステムにおいてそれほど特異ではない。 『サンド‐フーグに反論する』の一部をなす「ジェラールードーネルヴァル」では、ネルヴァルにおいて、発生時の狂気が「一種の過剰な主観主義」にほかならず、万人に共通な現実の代わりに「夢や、回想や、感覚そのものの個人的な特質」にもっと大きな重要性を付与させる働きがあったことをしきりに論じる。

2013年6月 1日 (土)

冒涜的な快楽

ゲイのサオ師と俺と友人
ヴァントゥイユ嬢とその女友達が冒涜的な快楽にふける、遠いモンジューヴァンの情景が「アガメムノンの殺害者を罰するために帰ってきた」オレストのように、「私を責めるために、たぶん、そうでないと誰が知ろう、私が祖母を死なせたのを罰するために」、心によみがえってきたのである(m、四九九)。 この想起もまた、悔恨にみちた、もう一つの「心の間歌」現象である。 これ以後『囚われの女』から『消え去ったアルベルチーヌ』へとつづく、同性愛ゆえのアルベルチーヌとの苦しい恋は、話者の心のなかでは、祖母がくだしたいわば刑罰である。 祖母への負い目を、彼は同性愛に由来する苦悩で支払わねばならないのだ。 同性愛の問題が、この小説の奥に深くよどむ話者の罪の意識、そしてそこからくる順罪としての芸術創造というテーマと、結び合うことがわかるだろう。 小説のなかで、話者と祖母とのかかわりが、よく話者の女性関係とペアーになるのを指摘したのはアントワーヌーコンパニョンである。 ①「心の間歌」の想起が起こるバルベック滞在のとき、彼はピュトビュス夫人の小間使を追い求めている(m、一五一な、ど)。 ②『消え去ったアルペルチーヌ』でのヴェネツィア滞在において、街の娘たちへの欲求と、祖母への哀惜の念(Ⅳ、二〇八など)とが平行して進む。 ③草稿の一つでは、祖母が発作を起こすその日に、話者はヴェルデュラン夫人からピュトビュス夫人が夕食に来ることを知らされる。 いずれも女性への欲望が、祖母が知ったら悲しむであろう状況で生じることがわかる。 肉親にまつわる悲しみの最中でも、欲望は高まるのだ。 プルーストには肉欲を何かしら冒涜的な、罪深いものとしてとらえる側面がある。 小説のなかでの、話者と祖母とのこんなかかわりを見ていると、どうしても現実のプルーストと母との関係に思いを向けないわけにはいかない。

2013年5月30日 (木)

同性愛関係を師弟の関係に結びつけること

新宿三丁目駅でゲイと出会ったよ!
同性愛関係を師弟の関係に結びつけることは、同性愛をめぐるさまざまのトポスの、おそらく最大の一つである。 古くはローマのハドリアヌス帝とアンティノウス、レオナルドーダーヴィンチとその弟子サライ、近くはロシアバレーのディアギレフとニジンスキー、アンドレーシードとマルクーアルグレ……。 文学作品では、バルザックのヴォートランとリュシアンードーリュバンプレを筆頭に、『ドリアンーグレイの肖像』のヘンリー卿とドリアン、『禁色』の檜俊輔と南悠一、……。 多少ともこのテーマに属する人間関係はいくらもある。 同性愛傾向の持ち主たちにすれば、自分の性癖を教育・指導・経験と秘訣の伝授に重ねれば最大の仮面・口実あるいは正当化を手に入れることができる。 何やら後ろ暗い関係も、教育の美名のもとに恥じるところはなくなる。 子弟の教育は、多少でもエロス的雰囲気が混じることでより効果を発揮するのだという主張にも、根拠がないわけではない。 シードなど、男たるものすべからく男性によって教育されるべきだと主張する。 もしジャンージヤツクールソーがヴァラン夫人ごときに恋愛教育を受けなければ、あんな不良少年みたいにならなかっただろう(『コリドン』)。 教育とは信頼であり、支配であり、弟子のうちに自己を拡張するナルシシズムの一形式であるから、ときには愛と区別がつかない本源的な欲望に属する。 だから同性愛と異性愛を問わず、恋愛の喜びには必ずといっていいほど、教育し教育される喜びが加わるものだ。 ミュージカルの『マイーフェアーレディ』や、その原作であるバーナードーショウの『ピグマリオン』のように、下層階級の娘を磨いて、美しく教養のあるレディに育て上げるというテーマはよくある。

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